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第三章 99.9%の証明

Author: 相沢蒼依
last update publish date: 2026-09-06 11:22:20

 秘書として働き始めて、早くも一ヶ月が経った。朝の執務室は、もうすっかり日常の風景になっている。

 毎朝7時45分頃に到着し、智臣のスケジュール確認。それを終えてコーヒーの準備、昨日の議事録の整理から一日を始める。

 最初は右も左もわからなかった秘書業務も、今ではかなりスムーズにこなせるようになった。

「九条くん、今日の資料、よくまとまってるよ」

 隣の秘書室から顔を出した井上さんが眼鏡を押し上げながら、穏やかに微笑んだ。

「特に昨日の海外支社向けレポートは、非常に要点が分かりやすかった。社長も目を通したときに『問題ない』っていう一言だったから、かなり上出来だと思う」

「ありがとうございます、井上さん」

 俺は素直に頭を下げた。井上さんの「よくやっています」という言葉は、重みがあった。この人は会社の生き字引と呼ばれるだけあって、褒め言葉一つにも説得力がある。

 そのおかげで、少しだけ胸が温かくなった。

 欠陥オメガで、九条家からも見放された俺が、まさかこんな大企業で認められるとは思っていなかった。バイトを掛け持ちして何とか食いつないでいた頃を思えば、夢のような日々だった。

 午前10時過ぎ、智臣が執務室に入ってきた。俺はいつものように資料を机の端に置き、今日の予定の報告をする。

「社長、本日の午後から行われる会議用の資料をまとめました。重要ポイントは、赤線で引いてあります」

 智臣は資料を受け取って静かにページをめくり、眼鏡の奥の視線が素早く文字を追う。赤線の位置、付箋の貼り方、要約の順番──どれも無駄がない。

 わずかに視線を止めると、短く言った。

「……よくやった」

(……え?)

 俺は一瞬、言葉を失った。智臣から直接「よくやった」と言われたのは、これで二回目だった。告げられたセリフを頭の中で反芻するだけで、心臓がどきりと跳ねる。

「あ、ありがとうございます……」

 声が少し上ずってしまったのが、自分でもわかった。智臣はそれ以上何も言わず、そのままモニターに向き直ったが、俺の胸には小さな喜びが広がっていた。

 こんなことで嬉しいなんて、単純だ――それでもあの人が俺に向ける言葉は、仕事の評価しかない。だからこそ、その一言が胸の奥まで染み込んでしまう。それと――。

(この人、本当に結婚式のことを……何も聞かないし責めないんだな)

 一ヶ月経った今でも、智臣はあの日のことに一切触れてこない。

 逃げ出した俺を、わざわざ自分の秘書に据えておきながら、復讐の素振りも追及も、恨み言すら一切ない。ただ、淡々と仕事を振ってくるだけ。

 しかも、一定の距離をとるのは相変わらず。指先が触れそうになることも、ほとんどなくなった。

 あの夕方の小さな「ざわつき」以来、智臣はさらに俺に近づかないようにしている気がする。

 だからこそ褒められれば褒められるほど、逆に違和感が募っていった。

(――本当にこの人、俺のことをどう思ってるんだ?)

 もし本当に嫌っているなら、もっと冷たく突き放すはずだ。復讐したいなら、もっと意地悪な仕打ちをしてくるだろう。

 なのに智臣は、ただ「合理的に」俺を使い、必要な評価だけを短く与えてくる。

 それは優しさなのか、無関心なのか、それとも——。

「九条」

 突然呼ばれたことで、慌てて顔を上げた。

「午後の会議に同席しろ。通訳が必要になる可能性がある」

「はい、承知しました」

 智臣は、すでに次の書類に目を落としていた。こちらを見ようともしない。 俺は小さく息を吐きながら、自分のデスクに戻った。

 嬉しい気持ちと得体の知れない違和感が、胸の中で静かに混ざり合っている。

 99.9%という数字は、まだ俺と智臣の間に、重く横たわったまま――その頃、俺はまだ知らなかった。胸の奥に小さく灯り始めた違和感が、近いうちに理性ごと飲み込むほどの熱へ変わることを。

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